pakin’s blog

主に創作を主体とします。ただし、人権無視の最たる原発問題や、子どもの健康や命を軽んじる時事問題には反応します。

竹取幻想86

 

 


     雲となり雨となりても身にそはば
              むなしき空を形見とや見む     小侍従

 

 貴方の胸中を初めてお伺いできました。この私の拙い歌をまずお伝えします。

私は貴方のお話をずっとずっとお聞きしたかったのです。大変うれしくお聞きしました。言葉の表現の違いはあるものの、私なりに精一杯理解したいと思います。

お互いに思いがよほど深くなければ、歌や物語の世界を共有し時空を超えてこうして心を通わすことなどできません。貴方が私の拙い話をずっと真心をもってお聞きなされていたことを感じていたからこそ、長々と話を続けてこられたのです。そして、もちろん、この厳島への旅は私自身の恢復の旅でもありました。こうしてお話しながら、その一つ一つに私は己の恢復を得ました。また、それにもまして、生きることの意味、その悦びを豊饒な世界に身を置くことで、ああそう、豊饒な世界・・・美しい海や山、島々の自然、そこに生きる無数の命たち、そして健やかな人々・・・によってもたらされたのでした。なんという出会いの幸運でしょう。この末法の世においてわずか数日間のこの上もない幸せを頂いたのです。出会ったすべての方々に私は涙と共に感謝申し上げております。そして、その後の人生を耐えて生き抜く覚悟も頂きました。

 

 そう、貴方に皆さまのそののちをまずお伝えせねばなりませんね。

史文徳さまは文祐さまと子どもたちを引き連れ予定通り宋にお戻りになさっています。厳島の旅の翌年の春のことです。福原に入港された蔡さま李船長によってみなさん乗船なさいました。その出帆前、まだ春浅きころにみなさん都にお出でなさって石清水八幡宮で再会を得ました。その嬉しかったこと。おチビちゃんの菊丸も一年ですっかりお兄ちゃんになっていました。皆さんは宋の明港で無事に、つまり蔡さまのご助力もあって入国し、江南の地でまた料理店を開いたそうです。そしてお店を切り盛りしながら文徳さま念願の義塾をお開きになったそうです。そして、貴方も驚かれるかもしれませんが・・・あのつわぶきは文徳さまの奥様として一緒なのです。文徳さまにそれは熱心に口説かれて仕方なくとか本人が言ってましたが・・・たしかに頷ける話でもあります。しかし、文徳さまの前に立つだけで真っ赤になっていては皆さまに筒抜けの話となります。まあなにより子どもたちも大喜びでした。宋人町で盛大な祝宴が設けられたとか。江南のお店でつわぶきが大活躍している光景が目に浮かびます。子どもたちは一生懸命文徳さまの義塾で勉強しているとか。


 厳島の旅の承安三年から七年後の治承四年、旅に於いて私をお守りくださった、兼綱さま、康忠さま、競さま、仲光さま、清親さまのみなさまは、源頼政さまに最後まで付き従い、あの宇治平等院での戦いで見事なご最期を遂げられました。以仁王さまをお逃がすために時間を稼ぐためのご最期とお聞きしました。

 あのお若い清親さままで橋合戦において、十倍する平家方にさんざんに矢を打ち掛けなさったとか。そして渡河してきた兵による矢傷を負って動けなくなっていた仲光さまと向き合ったかと見るやすかさず互いの心の臓を貫き果てられたとか。平家の方々もお二人の若さと見事なご最期に涙なさったとか・・・若さの漲る眩しい笑顔で子どもたちを相手に遊んでくれた仲光さま清親さま・・・


 兼綱さま、康忠さま、競さまの奮迅ぶりは言うまでもありません。みなさま頼政さまのご覧を前に悦び勇んで戦い、矢傷刀傷で血潮にまみれながら、赤鬼の形相で力尽きなされたとか。そうそう、渡辺競さまについては実は噂話としてお聴きください。宇治平等院での戦いの前、皐月二十五日深更のことです。篝火の火の粉が舞う園城寺の陣営にて頼政さまは兼綱さま、康忠さま、仲綱や宗綱さまの御前にて競さまに次のようにお命じなされたとか。

「競よ、渡辺党を守らねばならぬ。お前は嵯峨源氏の流れをくむ者だが、決してその血を絶やしてはならぬ。比叡も園城寺もはや頼みにならぬ。我々摂津源氏はこの戦いで敗北するであろう。何としても以仁王様だけはお逃がしせねばならぬが、その為の戦いとなってしもうた。その時間を稼ぐために我々は死す。わかったか、競、お前たちは生き延びよ。決して渡辺党の血を絶やすでない。これまで懸命に仕えてくれたこと、心から嬉しく思うぞ」

 兼綱さま康忠さま、仲綱や宗綱さまみなさま微笑んで競さまを見守っておられたとか。競さまは涙にくれておられたとか。そして宇治平等院で猛烈な弓捌きで敵を食い止めなされ、頼政さまご自害を見届けられてのち闇に消えたと伝え聞きました。競さまのご子孫はやがてのちの世に奥州相馬氏の家臣となられたとか。

 伝え聞くところ、みなさま玻璃のお守りを腰に結んでおられたとか。帰りの黄山号の上で、厳島社での琴の音と玻璃のお守り、もう我々全員なんの憂いもなくなり申したと兼綱さまに晴れやかに仰っていただいたことを思い出します。それは私もまったく同じ心だったのです。


 平経盛さまは一の谷の戦いでご子息を多く喪い、壇ノ浦で弟の教盛さまとともに入水しなさりました。お優しい経盛さまがご子息の討ち死にを見たご無念はいかばかりでしょうか。

 

 佃明弘さまは源義仲さまの福原焼き討ちの狂暴に対し、老いたるおん身ながら福原のお屋敷の燃え盛る前で敢然とご自害なさったとお聞きしました。西行さまも源義仲さまのその焼き討ちには、その暗愚狂暴に対し激しくお怒りになられたとか。宋の方々はもちろん以前に宋にお戻りになっておられます。

 

 平忠度さまは一の谷の戦いで討ち死になされました。始めにお伝えしたとおりです。

 

 西行さまは文治2年、なんと御年七〇近くで奥州藤原氏までの旅を決行なさいました。おそらく壇ノ浦の戦いの有様も、養和の大飢饉の有様もそののちの都もつぶさにごらんになられたことでしょう。そして驚くべきことに源頼朝さまにも鎌倉でお会いになったとか。和歌についてお尋ねになる頼朝さまに、和歌など忘れたというような態度だったとか。さすがの頼朝さまも西行さまにはかないません。