「さあ、これを」と私は娘のようなかわいい祇王に扇一枚を渡しました。武者方も遠慮するなとばかりに彼女らの手に握らせたものがありました。祇王たちがきょとんと手のひらに置かれた丸いものに見入っていると兼綱様がおっしゃる。
「そうか見たことはなかったか。それは宋銭というものだ。清盛公が宋との交易を盛んにしておられるが、その宋銭なるものも、清盛公が我が国の貨幣による取引を復活なさろうと宋より輸入なされたもの。さあ、都へ入りなさい。都でもおまえたちの今様はもてはやされるであろう。この宋銭も都では使えるぞ。大きな額ではない、小遣い程度だ、遠慮するでない。」
私も宋銭のことは詳しくは存じませんでしたが、後白河院が清盛公のなさっておられることへ反感を抱いておられるのがこの事かと腑に落ちました。絹や米に替わる宋銭の普及は清盛公によって一気に普及し始めていました。宮廷では絹による支払いが長く続いていたのです。二百年に亘って続けられてきた絹や米による取引をわずか数年で銭取引きに代えたことは宮中の人々にとって大変な打撃であり混乱も大きかったのです。それでも宋銭での代価や給与の支払いが続くとその便利さに人々は次第に慣れていったと聞いております。
「清盛公は大きなお方じゃ。宋を相手に一歩も引かぬ商いをなさって莫大な利益を得られておられる。はじめに太宰府に我が国初となる人力で作った袖の湊を皮切りに音戸の瀬戸を切り開き厳島神社造営とともに停泊施設を作り、仕上げに福原に経ヶ島をまた人力でおつくりになられた。我が国の富を豊かにせんと、瀬戸内の海上交通の道はもちろん、水軍による安全対策もな。宋との交易の場を新たにお作りになろうとしてらっしゃる。これほどの人物は昔に観ても誰一人おらぬわい。まあ平家の世ではあるのう」
渡辺競さまが仰るお話は宮にお仕え申し上げていた頃はただ噂話程度で伺っておりましたが、いま、このように目の前でお聞きすると、清盛公が異例のご出世をあそばされること、さらに世の広さや大きな動きというものが肌に感じられるのでした。
「さあ、小侍従殿、我々も出発せねば。鳥羽で弟殿がお待ちですぞ」
祇王たちとの別れを惜しみながら出発です。そして、後に、清盛公によって彼女たちの悲劇が起こることなどは、その時、知るよしもありませんでした。いや、それは清盛公によって、と申すより、宮廷に入った女人たちの悲劇でもありました。多くの女人たちが、都人、貴人、武士同様に世の目まぐるしい波乱、と巨大な時代の変革の中で悲劇を味わうのでした。
時折、あたたかな風が吹き込んできます。往来の賑やかさは車の中からも伺われます。商人らの荷車がひっきりなしに通り、うららかな陽気にこころなし人々の声も明るく聞こえてまいります。
「今日は鳥羽でお泊りいただきます。明日、淀川を舟で下り川尻寺江まで参ります」
兼綱様のお声も幾分弾んでいらっしゃるようでした。
車はゆっくり進んでいきます。
ときおり荷駄を積んだ車の音が響きます。
兼綱様の方々の馬蹄の音、時おり行き交う甲冑の響き・・・
先ほどの今様や祇王の舞いなど思い浮かべながら、花の香る風に包まれながらぼんやり思いを巡らせておりました。