「はい、私ももうよい歳でございます。これからの自分のなすべきことを思案する日々ですが、なにか私が宋と日本に貢献できることが見つかればわが喜び他のものはありません。
一年の計は穀を樹うるに如くは莫く、十年の計は木を樹うるに如くは莫く、終身の計は人を樹うるに如くは莫し。
一樹一穫なる者は穀なり、一樹十穫なる者は木なり、一樹百穫なる者は人なり。」
「おお、それは・・・」
康忠様が嘆息なさりながら仰います。
「それはたしか貴国の春秋戦国と呼ばれたころの『管子』という書物の言葉であったの」
「はい、『管子』は、我が国古典によく起きることですが、その後に人々が改稿や自分の思想を付け加えたりしております。したがって今私が引用した言葉もどなたの言葉かは定かではありませぬ。しかし、今、私はその言葉に導かれようとしております。日本の若き学僧の皆さんが我が国を目指しておられると聞いております。また我が国の僧侶らも日本に渡らんと望んでおります。新しい学問が仏教や儒学に花開いております。そのような人々の橋渡しの役目と同時に、私は黄山ほか同志とともに義塾を発展させ当地のこどもたちへの教育に今後を尽くしたいと切望しております。同志たちの連絡により、帰国が近いのです。石清水八幡宮権別当成清様には格別のお引き立てを頂戴しながらまことに申し訳ないことと思っております」
史文徳様はそう仰ってまた平伏なさいました。
「いや、もう気にせんでくれ。何度言ったら分かるのじゃ。それは文徳の晴れの門出じゃ、わしはいまその話を聞いて嬉しくてならなんだ。そうか、苦節数十年、よく耐え努力し今、志を果たさんとするのだな。いや、こんな嬉しい話はないぞ。志を全うしてくれよ、いや、文徳なんて気安く呼べなくなるわい」
成清は酔いもあるのでしょうが目に涙を浮かべております。
「それで文徳殿、今のお話のなかで子どもたちと聞いたが・・・学生ではないのか」
兼綱様がお尋ねになります。
「はい、太学生ではありませぬ。小さな子供たちを教えたいと存じております。」
「なぜじゃ。終身の計は人を樹うるに如くは莫し。一樹百穫なる者は人なりともうした話に於いて、文徳殿は小さな子供を考えておるのか。たしかにわが国でも幼い子らが寺に入って学問をなすことはある、また大学や国学などの教育機関があるが」
「仰ること存じております。ただ私は貧富身分など無関係に教えたいと願っております。お聞きするところ、こちらには綜芸種智院と呼ばれた学問所があったとか。たしか空海様のお開きになった学校と存じております。儒教仏教はじめ道教など広く学問を学べる学校で食事も無料だったとか」
「そうじゃ、しかしそれは残念ながら短期間で終わってしまった」
「私は、いや私どもはそのような理念を持ち、かつ幼い子供らを対象にしたいと願っております。」
写真 吉野西行庵