pakin’s blog

主に創作を主体とします。ただし、人権無視の最たる原発問題や、子どもの健康や命を軽んじる時事問題には反応します。

野いばら講座

野いばら講座

令和4年5月28日
信濃追分堀辰雄文学記念館

演題
「音楽で出会う堀辰雄~蓄音機・SPレコードで聴く」
講師
 庄司達也先生 横浜市立大学教授


 この講座に参加して以来、毎回天候に恵まれている。当日も初夏の風としたたる緑のなか、当時の面影が残る追分宿を愉しみながら歩いた。堀辰雄はこの地に最後の家を構え亡くなったのだが、本講座はその命日を偲んで開催されている。「野いばら」とは堀の詩の一句から採った。

今回の講座の趣向は、以前にも音楽と堀の関係を論じた講演がいくつかあったが、実際に存命当時に堀が愛用した蓄音機とレコードで聴くというもの。まあコンサートの趣である。

しかし、堀の蓄音機は彼の死後かなりの時を経て奥さんより贈られた軽井沢高原文庫に保管されたままで、写真をみると壊れて使い物にならなかったのを、庄司先生が文庫に助言して修理したものだという。また、SPレコードは文学館所蔵のもの。

堀が存命当時につつましい家で愉しんでいた状況の再現、これが講演の趣旨であり、これはおそらく滅多に得られる機会ではない。というのも、SPレコード自体がかなりの摩耗をしており、「保存するには聴かないのが一番」(先生)という状況なのだから。

堀の蓄音機は写真にある3台の真ん中のポータブル蓄音機である。製造元不明という現代では不思議な話だが、先生によれば、山野楽器「オルソトン2号」に酷似しているという。蓄音機が日本に入ってきた当時は関税100%という贅沢品でとても庶民に手の届く代物ではなかったが、なんと、バラの部品を輸入し国内で組み立てれば高関税から免れるという知恵で、国内組み立てのものが流通し始めたのだという。厳しい家計をやりくりしてやっと念願の蓄音機を手にした堀はどんなに喜んだことだろうか。音楽好きな人ならわかるはずだ。私も高校生のころ、親に初めてポータブルステレオという、今からみれば玩具みたいなものを与えてもらったが、初めてレコード盤に針を置いた時の感動は覚えている。ベートーヴェンの「田園交響楽」とチャイコフスキーの「悲愴」の2枚のLPだった。

堀の時代はSPである。1枚のレコードでせいぜい5分程度しか録音できない。従って一曲を聴くのに何度も掛けなおさなくてはならず、また、そのたびにハンドルを回してゼンマイを巻く作業がある。PCでクリックして楽しむ現代とは隔世の感だが、それを丁寧に行い楽しんだ昔の人たちの喜びはまた別格のものだったはずだ。そうそう、レコード針も鉄製と竹製で先生は竹を削ったりしながらかけていた。竹と鉄、その違いもまた愉しみだったろう。

文学記念館のホールはコロナの影響下いまだ入場制限が続き、今回も20名ほどだが、倍の40名となるとホールは一杯になる。

先生のご用意してくださった資料を説明をお聴きしながら読み、そして聴く。雑念が一切消えて、なんとも贅沢な時間が過ぎていく。


パレストリーナ「贖主の聖母よ」
      パリ木の十字架少年合唱団

ショパン前奏曲」より 
      ピアノ、アルフレッド・コルトー

シューベルト「冬の旅」より 
      ゲルハルト・ヒュッシュ

バッハ「ブランデンブルク協奏曲」より
      ブッシュ室内合奏団

ブラームス「アルト・ラプソディ」
      ジークフリート・オネーギン(コントラルト)クルト・ジンガー指揮、ベルリン国立歌劇場弦樂団ベルリンドクトル合唱団



堀辰雄『美しい村』より

「そんな風に思い出に導かれるままに、村をそんな遠くの方まで知らず識らず歩いて来てしまった私は、今更のように自分も健康になったものだなあ、と思った。私はそういう長い散歩によって一層生き生きした呼吸をしている自分自身を見出した。それにこの土地に滞在してからまだ一週間かそこいらにしかならないけれど、この高原の初夏の気候が早くも私の肉体の上にも精神の上にも或る影響を与え出していることは否めなかった。夏はもう何処にでも見つけられるが、それでいてまだ何処という的もないでいると言ったような自然の中を、こうしてさ迷いながら、あちこちの灌木の枝には注意さえすれば無数の莟が認められ、それ等はやがて咲き出すだろうが、しかしそれ等は真夏の季節の来ない前に散ってしまうような種類の花ばかりなので、それ等の咲き揃うのを楽しむのは私一人だけであろうと言う想像なんかをしていると、それはこんな淋しい田舎暮しのような高価な犠牲を払うだけの値は十分にあると言っていいほどな、人知れぬ悦楽のように思われてくるのだった。そうして私はいつしか「田園交響曲」の第一楽章が人々に与える快い感動に似たもので心を一ぱいにさせていた。そうして都会にいた頃の私はあんまり自分のぼんやりした不幸を誇張し過ぎて考えていたのではないかと疑い出したほどだった。こんなことなら何もあんなにまで苦しまなくともよかったのだと私は思いもした。そうして最近私を苦しめていた恋愛事件をそっくりそのままに書いてみたら、その苦しみそのものにも気に入るだろうし、私にはまだよく解らずにいる相手の気持もいくらか明瞭しはしないかと思って、却ってそういう私自身の不幸をあてにして仕事をしに来た私は、ために困惑したほどであった。私はてんでもうそんなものを取り上げてみようという気持すらなくなってしまったのだ。で、私は仕事の方はそのまま打棄らかして、毎日のように散歩ばかりしていた。そうして私は私の散歩区域を日毎に拡げて行った。」


ここでは「田園交響曲」の第一楽章が堀の希望を見出した世界を彩っている。病が小康状態なのだが、その中で堀は精一杯に世界の喜びに浸ろうとしているのだ。その季節はまさに今、今日の当地も日差しは強いが薫風吹き渡る爽快な日である。このほかバッハの遁走曲もでてくるが講演会では2曲とも割愛。

「贖主の聖母よ」パリ木の十字架少年合唱団、これは立原道造が堀の結婚祝いとして贈ったレコードだ。

「御結婚のおよろこびを申し上げます。お祝いのしるしにフランスの『木の十字架』教会の少年たちの歌った聖歌をお贈りいたします。美しい村でおくらしになる日、森の中の草舎でこの歌がきかれる初夏、花々のことなど、一切のけふのあはれに美しい僕の夢想を花束に編んで、それに添へた心持でお贈りいたします。それからもうひとつのは、去年の秋の奇妙な出来事が僕に選ばせた歌なのですが、これはお祝いのしるしというのではなしに、ただ、あの不意に家のなくなってしまった日のかたみのために、高原の村ぐらしのなかにお持ちになっていただきたかったのでございます。沢山の幸福とよろこびと潤沢な日日とを恵まれますように。   道造」

立原道造が贈ったレコードが『贖主の聖母よ』とドビュッシー『もう家もない子のクリスマス』だった。

立原は翌年結核により24歳で死去するがこの手紙には一切の曇りがない立原の心境がある。堀は小康状態を維持していた。
文中の「去年の秋の奇妙な出来事」とは堀や立原らが逗留していた追分の油屋旅館全焼のこと。ただそこで書き上げた堀の王朝ものの『かげろふの日記』は郵送のため持参していたので消失を免れた。

庄司先生は蓄音機2台をご自宅からお車で運んでの講演だった。まず、なかなか得られない幸運な機会を与えてくださった。参加者みなさん大きな拍手で感謝を示した。

帰りにその旧油屋、現在は「信濃追分文化磁場」として屋内各部屋がそれぞれアートや古本のブースとなっているが、その入り口にある茶店で珈琲をいただいた。帰途相変わらず薫風が緑を吹き抜けるなか宿に戻った。




写真
蓄音機中が堀辰雄愛用のもの。両脇が庄司先生ご所有のもの。

宿近くの茶店。カウンター席5席ほどで地下と2階にも座席がある。隣に座っていた爺さんが、ここはもう40年続く店でな、ママが凄い美人だよと言う。で、ママにマスクを外してと頼んだが、微笑むだけで頑として外さなかった。