pakin’s blog

主に創作を主体とします。ただし、人権無視の最たる原発問題や、子どもの健康や命を軽んじる時事問題には反応します。

ぼくたちの哲学教室ー全ての先生と保護者へ

http://www.eurospace.co.jp/works/detail.php?w_id=000683

今月末まで上映

 


ずっと気になっていた映画だが、学校という悪夢が先立ってなかなか足を運べなかった。
昨日は早稲田松竹イメージフォーラムの「世界が引き裂かれる時」を考えていたが、この「ぼくたちの哲学教室」となった。

掲題の「全ての先生と保護者へ」は私が勝手につけたものである。本音はそれに「文科省の役人様」もつけたいのだが、それをつけるとブラックジョークになるので止めた。

舞台はアイルランドベルファストである。ベルファストとなればご存じの方も多いだろう。宗教的対立から「北アイルランド紛争」と呼ばれる戦争に長年翻弄され疲弊した地域である。

さて、ケヴィン校長は小学校低学年の幼い子どもたちに「対話」を通して哲学を伝える。彼らの学校生活から浮かび上がる生活がその対象であり、そんないじめや暴力への解決を「対話」を通して図るのだ。

あくまで子どもの発言を引き出すことを前提とし、決して一方的にならない。押し付けない。そんな子どもの口から洩れる一言を糸口として真剣な対話へと導く。

「やられたら、やりかえす?それでいいの?」

親たちも巻き込みながら・・・
ケヴィン校長の小学校卒業生の自殺者は20名となった。その背景を背負いながら極めて真摯に情熱的に職員とともに「教育」を実践する。自由に。校長が授業?そう。なんら珍しいことではない。文科省の奴隷ではないのだ。ストレスも厳しいだろうが、奴隷としてのストレスではない。自由に向き合う厳しさからくるストレス。その自由の先にあるのが子どもへの責任なのである。エルビスプレスリーを歌い、ジムで鍛える姿は彼自身の重荷を感じさせる。

そうした学校での子どもたちの表情や姿は美しい。本当の意味で大事にされること、尊重されることで子どもたちは本然たる子供らしさを発揮するのだ。入学後の始めの低学年生への彼の「哲学教室」実践はそういう意味だろう。日本のような軍隊式訓練や無責任指導、市販ドリル漬け塾通い小スポ狂いの真逆である。

ケヴィン校長の実践知としての子どもとの対話とはソクラテスなのである。そして、正直羨ましいと感じた。その子ども主体という基本的スタンスはおそらくアイルランドだけではなく他の国々でも存在しているだろう。

『ぼくの好きな先生』
https://www.youtube.com/watch?v=uEy_Mc2cK9I

ついでに、といえば叱られるが日本のなんちゃってロックではない忌野清志郎の『ぼくの好きな先生』がある。
https://www.uta-net.com/movie/4144/
おそらく日本では絶滅した先生^^。