pakin’s blog

主に創作を主体とします。ただし、人権無視の最たる原発問題や、子どもの健康や命を軽んじる時事問題には反応します。

厳島記   改稿

厳島

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夜も次第に更けていった。 
小侍従は一人宿所から抜け出て厳島神社の平舞台に立った。文月の潮風は心地よく、社の背後に聳え立つ弥山は黒々と銀河を仰ぐ。

 

 小侍従と供の武士四人の一行は、都から七日をかけて厳島に着いた。唐船から渡し舟に乗り、波の照り返しのなかに朱色に輝く厳島神社の大鳥居を仰ぎ見ながら、初めてこの地に降り立った時の小侍従の感動は言葉にならなかった。

 

 一歩一歩踏みしめる、神の島の白砂の音が小侍従の心を満たした。瀬戸内の海や数々の青々と輝く島の景色。また、海で暮らす人々の精気あふれる褐色の姿は、宮中に暮らしていた頃には想像もつかぬ広々とした美しい景色であった。小侍従はこの旅に出て都の外の世界を初めて知ったのだった。女房たちの、執拗で陰湿な虐めに打ちひしがれている小侍従の気配に、御心を痛められた太皇太后多子様は、小侍従に暇を賜れた。小侍従の歌友である平経盛は、小侍従が宮中から下ると聞き、小侍従に厳島への旅を勧めた。


「わが兄清盛公が造営された厳島神社をお参りになってはいかがです。船で海を渡っていくのですよ。私が旅の手配をいたしましょう。お疲れを癒してくだされ」
そう経盛から伝えられると、小侍従の疲弊した心に一筋の光明がさしたのだった。


 小侍従は寄せる波を間近に見ようと、本殿の平舞台の端に座った。波は折しも山の端にかかった満月の光を受け、秘曲の音色のようにさざめいては輝いている。その場に琴があれば小侍従は無意識にでも弾き始めていただろう。幼き日に雅楽頭源範基に導きを得た琴は、数年で秘曲を伝授される腕前となったが、小侍従は人前で弾くことは滅多になかった。

 煌々たる満月の光に、平舞台も明るく、濃藍色に浮かぶ安芸の対岸まで見渡せた。身じろぎもせず小侍従は目を閉じた。さざ波の音の中で五十三年の来し方が小侍従の胸を駆け巡った。


「小侍従さま」
振り返ると、釈王内侍がこぼれんばかりの笑顔で白百合を活けた壺を差し出した。
 
「これは私どもが平忠度さまより御ふみにて承ったものです。当地の百合の花を小侍従さまにお届けするようにと」   

      
 月明かりに映し出された白百合の花は社内随一の美人と噂された釈王内侍の顔にもまさる清楚な一輪だった。花の下に小さな文が結ばれていた。開くと忠度さまお手跡の歌がしたためられていた。

 

  いつくしま白百合の花夜床にも
      愛しと匂ふ妹ぞかなしき

 

 万葉のお歌を本歌取りなさった忠度さまのお歌と小侍従は即座に気づいた。忠度さまは老いた私にも気遣って下さる。小侍従は感謝した。昔、短い期間、忠度と恋の歌をやりとりした思い出がよみがえった。百合はかぐわしく小侍従の記憶を染めた。釈王内侍は低く頭を下げると去っていった。

 

 しずかに時は動いていった。月は中天にかかり、銀河は影を潜め、波は一層煌めいていた。このまま時が止まってくれたらという、幼い頃の願いを思い出して小侍従は微笑んだ。

 

 ふと風が吹いたのだろうか、脇に置かれた白百合の花が一瞬頷いたように見えたのもかわいらしく思えた。その時、旅装束のまま、一人の影が背後の回廊から歩いてきて、笠の紐を解きながら小侍従の傍にすっと座った。

 

「しばらく。ご無沙汰しておりましたなあ」

 

 多少はしわがれているものの、その覚えのある艶のある低い声に小侍従は驚き、横に着座した男を見た。やはり西行だった。

 

「驚かせてすまぬ。いま、着いたばかり。貴女がここにいると聞いてすっ飛んで参った」

 西行は額の汗を拭いながら話を続けた。

 

「貴女が宮中を去って厳島に向かっておられると旅の空に聞いてのう。おお、懐かしい小侍従殿が、そうか、よい機会だ。久しぶりに厳島にも参りたいでな。いや、お元気そうなお顔を拝見して嬉しい限りですな」

 

 小侍従は、二十年以上も昔のこと、重い病を患っていた事があった。その時に西行が見舞いに訪れてくれたことを思い出し、小侍従は思わず涙をこぼしそうになりながら礼を述べた。

 

「あはは、いや、礼には及ばぬわい。あの時はな、万一貴女が亡くなられては貴女の琴を生涯聴けなくなってしまう。それは拙僧の今生何よりの無念、と存じたまで」

 

 そう、ある晴れ渡った冬の朝。その時は病も癒えて、雪の輝く庭に向かって、西行に、伝習した秘曲をお聴きいただいたことなど、小侍従は懐かしく思い出していた。

 

  琴の音に涙をそへて流すかな
       たえなましかばと思ふあはれに

 

 その時に西行が詠んだ歌を、この二十年、小侍従は幾度思い返しては涙し、また潰れそうな己の支えとしてきたことか。
 
 西行が佐藤義清という俗名で、北面の武士として生きていた若き日々、文武に優れ、眉目秀麗な若武者は当時、女房たちの憧れの的であった。それが何を思ったか,突然出家した。小侍従がお仕えした太皇太后多子様にも歌の才を可愛がられて、時々立ち寄られていたことなど懐かしい。

 

 横に座った西行に小侍従は驚いたというより呆気にとられながらも、西行の変わらぬ身の軽さを思い出した。気の向くままに旅をし、突然現れてはまた何処となく去っていく。乞食僧のようでありながら、南都北嶺の高僧たちに一目置かれている。武道は言うまでもなく、歌道においては都の貴人たちも尊敬を深く抱いている男。
 いま、その西行が久しぶりに傍にいる。小侍従は熱い思いが身から湧き出てくるのを覚え恥じ入った。日焼けした彫りの深い面長の横顔は、歳こそ感じるが昔と同じように厳しくも美しい面影が漂っている。

 

西行さまこそお元気なご様子。今も旅にお暮しでしょうか」


「変わらぬ乞食坊主じゃて。あちこち物乞いしながら生かされておる。おお美しい、白百合の花か。よい香りじゃ。そうか、忠度殿がのう。彼はまことを持つ男じゃが、歌詠みとしても見事。今もって美しく歌才溢れる小侍従殿。男どもに今も愛されるのは当たり前じゃ」
 西行はカラカラと笑った。

 

「しかしなあ、熱い思いも時が立てば薄らぎ、やがては消えゆくものを、さすが忠度殿であることよ。拙僧も嬉しくなり申した」

 

 月は西行の微笑んだ横顔を照らし、白百合の花はすっとうなじを伸ばし、闇に香り高く浮かびあがる。西行の旅の話をさまざまに聞きながら、逢えたら尋ねようと思っていたことを思い出した。

 

西行さま、ずっと教えていただきたかったことがあるのですが」

 

「何なりとお尋ねくだされ。今宵は初めて邪魔が入らずお話しできる機会じゃて」

 

西行さまのお歌には月や花が沢山詠われていらっしゃいますが、その月や花は西行さまにとってどのような世界なのでしょう」

 

「そういえば一年ほど前か、定家殿にも同じことを訊かれましたな。まだ一二歳、お若いのにまこと熱心。御父上の俊成殿もいたく喜んでおられましたな。拙僧にとって月や花とは、なに、み仏でござるよ。いや、そもそも歌とは拙僧にとって仏の道でござる。一首作っては己を観る。己を省みては絶望しまた歌を作る。その繰り返しでござるよ」

 

 その答えに小侍従は深く頷いた。西行が若き日より比叡を尋ね、奈良、吉野や熊野はおろか奥州まで行脚し、近年は荒ぶる讃岐院の御霊を鎮めるべく、四国を巡っていることを知っていた。折々に歌を詠みながら。しかし、もう一つ、どうしても訊きたいことがあった。

 

西行さまはなぜ御出家なされたのですか」

 

 これは西行が出家した当時から誰しもが憶測し噂しあったことであった。しかし、高貴な女院との噂まであり、事の真偽を訊くのはあまりに憚られた。

 

「拙僧の出家について色んな噂が立ったらしいですな。中には高貴な女院との色恋とか」
 西行は笑った。


「しかし、嘘はたやすく信じるが、まことを話しても人は信じないのが世の常。噂話などにかまけている暇はない。しかし、いま貴女ならお話しする甲斐があるというもの。確かに拙僧は、家にも恵まれ北面の武士という名誉も得ました。しかし、それに何の意味がありましょうや。北面の武士となり、さらに宮中の様子を知るに、民を忘れ道を忘れ、乱行極まる宮中にみ仏はいずこや。拙僧への色恋沙汰の噂もそんな乱行にうつつを抜かす方々の思い付きにすぎません。そして拙僧は何よりみ仏と歌の道に魅せられたのです。まあ生来我儘なのですな。」

 

 西行の明るい笑い声と話に小侍従は胸のつかえが降りた心地がした。

 小侍従には西行との秘め事があった。重い病に臥せっていた日々に、西行が自ら薬草を調合し煎じて、飲ませてくれたこと。ある夜のこと、焼けるような身を、忍んできた西行が一夜誦経塗香してくれたこと。

 

(必ずお治し申す。安んじ召されよ)

 

 と耳元で囁く言葉。うなされ苦しみながら小侍従は朧気に西行の心を感じ涙したこと。快方に向かったある晴れ渡った朝、前栽から、眩しく輝く雪を盆に盛ってきて口に含ませてくれたこと。その美味しかったこと。穢れを拭うように、体の中の隅々に清らかな雪が流れていくのを覚えたこと。小侍従の胸には幾人かの男の愛にも増して、西行との、ただそれだけのことが深く刻まれたのだった。

 

 ゆっくり、白百合の香りに包まれながら、静かに二人の話は続いた。小侍従は、このひと時の意味を思った。このまま時が止まってくれたらという、先刻思い出した言葉を反芻しながら。

 

 満月は西に傾きかけながら、平舞台や島を、海を、まるで化粧をするかのように白く照らしていた。西行とのこの時も、朝には儚く消えるだろう。しかし、この幾時かを得て、小侍従は生きていてよかったと心から思った。

 


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