長い年月だった。
10 年近く「竹取幻想」創作の過程を、作者ブログでつぶさに追ってきた。時には休止、時には最初からやり直し。そんな年月を経て作者が諦める事なくようやく完成させた渾身の物語に、私は何度も涙が溢れた。
無学な私には、断片的にしか知らない故事や歴史上の人物、古典文学や漢詩に難解な漢字… それらを一つひとつ調べて読み進める作業は大変だった。と同時に、弥山から臨む瀬戸内の海景で装丁されたこの美しい一冊の本を手にとり、長いあいだ待ちわびた途切れる事のない物語として読むことのできる喜び、バラバラなピースがひとつの大きなパズル絵として繋がり完成してゆく楽しさ、に満ちていた。「生徒に小侍従の物語(創作)を読みながらそれらの面白さ、国語の諸領域の面白さに気づいてもらいたいというコンセプト」(作者あとがき)に私が見事にはまった時間だった。
物語は、愚かな人類の欲望の果てに、人間の身体は虚弱化し、地球は環境破壊により生存不適となり果て、唯一残された道は生存可能な他の星で適応し生きるしかない、という絶望の未来世界で、人類の一縷の望みを背負い女子の DNA と共にたったひとりで宇宙船に乗せられた「僕」の語りで進む。宇宙に漂う孤独な「僕」に、常に寄り添い語りかけるのは、コンピューターのマザー、地球に残る父や母、そして、小侍従。
作中、度々出てくる「末法の世」。度重なる飢饉・大地震・戦争。大路に死体が転がり庶民は悲惨を極めているのに為政者は覇権争いばかりしている。そんな中、平家打倒に立ち上がった源頼政の独言には、作者の長い教員生活での苦難・闘いが染み込んでいる。燃え立つ焔・地獄の焔・涅槃浄土の焔など、様々に姿を変える焔や不動明王などの多くの強い言葉に作者の想いを重ねた頼政の決死の覚悟の心情は、読み返すたびに涙が出た。それは同時に現代の日本を思い出させ、作者の深い怒りと失望を感じさせる。頼政のように命かけてでも深い知性と熱い想い・覚悟をもって政治に立ち向かう日本人は、もはやいない。
死を覚悟した頼政が、怒りや絶望の独言の後、かつての恋人、小侍従への想いを語る場面が美しい。風の音、篝火のはぜる音、木立の葉が揺れる音、湖を吹き渡る風、風に乗って聞こえてくる小侍従の琴の音。それらが頼政に、すずやか・やさしき・懐かしき・幻のしらべ・おと玉…様々に心象を与え表現される。日本語の豊かさを思わずにはいられない。
嬉しいときも悲しいときも、死の瞬間も、どんな時も人は、五感全てをつかって自然・万物から与えられる現象に心が動き、無言の働きかけに心が呼応して、明日への希望に変えたり自らを慰めたり、あるいは更に絶望を深めたりしてきた。そんな日本人の古代からの精神性が八百万の神を尊崇する神道を生み出し支えてきたと思う。
また、そんな一言では言い表し難い心の動きを、1000 年前の日本人は、言葉一つひとつ吟味し選び抜いて 31 文字の世界に閉じ込め表現する和歌を作り上げた。
人はいさあかぬ夜床にとどめつる我心こそ我をまつらめ
不本意で理不尽な想いが多かった人生でも、小侍従と愛を詠み交わした日々は真実の想い。死に目に小侍従の顔を見る事は叶わず、琴の音だけを胸に先立つ深いかなしみ、毅然と死を受け入れる覚悟、を感じ胸を打つ。あなたのもとに心をのこして、いつかまた、逢えると信じて。
続く平忠度も源頼政同様に、地獄絵図と化した庶民の暮らしをよそに堕落した仏教・貴族社会への怒りを胸に一の谷の戦いで果てる。忠度は文武に秀で和歌の優れた詠み手であり、作者は最期の独言で和歌の神髄を紀貫之「仮名序」を用いて忠度に語らせる。
和歌を「やまとうた」と言い、言葉を「言の葉」と言う 1000 年前の繊細な言葉の美意識があった時代だからこそ花開いた和歌の世界。そんな繊細な美意識がとっくに廃れた現代に生きる私は、とてもさみしい。
「花鳥風月はその折々を超えその神韻に迫り、花の朝露に濡れしが如き涙のあはれも亦み仏の涙に通ず。詠むべきは言の葉の神韻なり。それは心に通ひ心を超え心を忘れんべきものなり。」
作者が忠度に語らせる美文。これと同じような言葉が物語後半に西行によって語られる。
「拙僧にとって月や花とは、なに、そのままみ仏でござるよ。一木一草に仏性ありと申すがな。」
「お思いなされよ。ただただ花のふりしく中に居るその空間をその時を」
そして小侍従が語る。
「きよらで美しいものすべて、つまり、この国の山河自然すべてが花であり神の宿る姿であったのでしょう。西行さまの旅は花の人生そのものですね。また、ああ虚空に響く琴の音よ …そう仰いました。虚空とは大空のこと、なにもなくすべてをつつむ三世宇宙すべての大日如来様のこと。」
「地獄絵図」と忠度が言ったそんな時代。花や月、石ころでさえ、万物すべてに神は宿り、いのちを感じ取る感受性。静寂を得られない現代には想像もつかない深い精神性が漂う。
夜は当たり前に闇となり、月光と篝火だけがたよりの静寂に生きて、自然を詠い、恋を詠み、祈りを詠んだ人々…。
小侍従が弾く琴の音は、静寂の中、華麗な花々となって舞い始める。「僕」が乗る宇宙船は当然、漆黒の宇宙にあるが、「僕」には宇宙船の周りを花々が舞い踊る様が見えている。はじめは光の粒のように見え、徐々に川の流れに見え、そして銀河のように大きな花の渦のように流れ始める。広大無辺の宇宙の中で「虚空に響く琴の音」に包まれて、宇宙船が向かうはサウザンクロス。
宮沢賢治が「銀河鉄道の夜」で描写した美しく煌めきの星々の世界。「竹取幻想」では、星が琴の音・花となり、「僕」と小侍従の交流を通じて生者と死者の垣根を取り払い、苦悩と絶望の前に立ち尽くす人々の魂を虚空へと誘い救済する。
虚空とは。辞書には、何もない空間・大空・色も形もない本源的な真如の世界、とある。私には難解で、考えながら物語を読んだ。
ロシアの天文学者によるカルダシェフ・スケールでは、宇宙文明はレベル 0 からレベル 7 まであり、レベル 7 では空間・時間は無意味な世界となり人類は肉体を持たず意識のみの世界となる。そんな世界では、生きているのか死んでいるのか区別する事はもはや成立しないだろう。ちなみに現在の人類はレベル 0.75 でレベル1へ到達前に絶滅の危機にあるという。生者と死者をつなぐ何もない虚空に魂の救済を求めた仏教の科学的先見性に今更ながら慄く。
「宇宙は無言ではなかった。宇宙に交差する無数のシグナルをマザーは全力で解析していた。」と「僕」は言う。2022 年 5 月、NASA はホーグ天体の画像を音に変換した動画を公開した。天体の形を可聴化したものだが、その水琴窟のような調べに私は何故か、眩いばかりの新緑の木立にきらきらと降り注ぐ木漏れ日。爽やかな風が通り抜け、常に命が生まれ死に、また生まれるむせるような命の匂いが螺旋状に立ち昇る…そんなイメージが浮かんだ。ここに、私の虚空はあるような気がした。
あなたにとっての虚空とはなんですか。宇宙が無限なら人の心も無限。その深淵に、苦悩や絶望を抱えて生きて死ぬことの真実を求め、書き連ねてきた人々の想いに心を寄せる時、私もあなたも、いつでもどこでも死者と語り、寄り添いあい、ひとりであってひとりでない、と気づくだろう。
絶望から再生の道を探って「僕」はひとり宇宙へと旅立つ。古代の人々との交流、マザー・父母との語らい、詩作を通じた思考の果てに、「僕」のイマジネーションは祠に閉じ込められた青龍が真言たる偈を唱えて虚空を目指す姿に昇華する。その希望を見出す支えとなったのは、生きた人間の想いが積み重なった上にいま、ここにある自分、という命の自覚だろう。まさしく文芸の力、によって。
「音も言葉も文字も命」小侍従のその言葉に私は「書くんだよ、あなたもこれからも書き続けていきなさい。書くことは人生そのもの。命そのもの」と言われたような気がした。
政治家が「文学部はいらない」とのたまう現代。子どもの自殺は過去最多を更新し続ける。これが、末法の世でなくてなんだろうか。子どもに生きる力を育む文芸の力でもって、作者は熱い熱い切なる未来への希求・遺言・言霊として「子どもに愛を、もっと愛を!」と叫んでいるのだ。
私には 2 歳の孫がいる。私たち大人への絶大なる信頼感を宿した無垢なる愛の輝きをその小さな身体から放つこの子に、私はいつか「竹取幻想」を読み聞かせするだろう。その時には、孫と一緒に地球儀を指でくるくると回しながら、2000 年も前から人々が行き交い、農耕も商業も宗教も文化も芸術も、あらゆる面で敬意と共に交流した国々の名を口にし、彼らを思うだろう。文徳、文祐、李船長、雪丸…そして西行、小侍従、忠度、頼政、もちろんジョバンニ、カムパネルラ、宮沢賢治…。
そして、ポラリス氏「竹取幻想」感想文に書かれていた言葉を、いつかきっと私も言うだろう。
「国語をもってあの灰色の受験勉強を燃やせ」と。
紫水
このような方もいらっしゃる。正直驚きそのものです。作者冥利とかそんな月並みな言葉では表せません。心から感謝申し上げます。
小さなお孫さんもいらっしゃるとのことで、お孫さんにお贈りします。
素朴なアニメーションも私は好きです。