pakin’s blog

主に創作を主体とします。ただし、人権無視の最たる原発問題や、子どもの健康や命を軽んじる時事問題には反応します。

竹取幻想17

僕は園城寺境内に燃え上がる篝火の爆ぜる音を聞いていた。宇治平等院の前で繰り広げられる鬼気迫る戦いの凄まじさや武者たちの鬨の声を聞いた。須磨の浦の静けさと翌日の一之谷の戦いを見ていた。人間がその肉体と精神を懸けた姿だった。そしてそれらの情景の背後の闇に憔悴し涙に袖を濡らしながらうち臥せっている小侍従の姿を見たのだった。


みずうみに浮かぶ月の明かりを見ていた。
時折吹き渡る風の声を聞いていた。

 

 その声はデータとして記録されたものではない。夢に現れた人々の肉声であり自然の姿であり、歴史の声であった。まことに不思議であった。僕の脳は記号としての電子言語を銀河の星の数以上に蓄えられるが、記号法則としての言語以外に僕は「経験」がなかった。その言語は対象に緻密に論理的な理解をもたらすのだが、思えば(そう僕には「思う」という記号を知っていただけだった)言語ではない言葉というものの内実に思い至る経験をいま得ているのだ。宇宙に放たれた舟の中の孤独の中で「経験」と呼べるものはない。すべてプログラミングされた生活。舟の内部状況や航行状況を知らせる計器信号の点滅。僕はただ横になったままそんな状況をすべて理解しながら舟のマザーから送られるエネルギーで生きているのだった。この六年間。父以外、唯一の僕の友は通り過ぎていく銀河の星たちだった。星たちはそれぞれ可能な限りの情報を伝えてくれる。

 

 言語ではなく言葉が、彼らの表現では言の葉というものが小侍従や源頼政平忠度の和歌を通して伝わってくる。5・7・5・7・7という形式によって生まれた和歌―もとは長歌と呼ばれた中から独立したーが世界の文芸史上まれに見る短詩(詩という範疇にはないのだが)であり、万葉集成立以前に民衆的な和歌といて詠まれていたとすれば、これはこの国の人々の抒情的美質であるし奇跡のような形式であった。西欧詩や中国の詩のような厳格な韻律を持たなかったがゆえに柔らかくしなやかに弾むような言葉の響きを持ち、紀貫之の仮名序にあるような魂を揺さぶる和歌。そしてその和歌を僕がどう受け止めるかというならば、それは言語的解釈などを前提にしつつも困難を極めたというのが実感であった。なぜならば、和歌の大和言の葉も彼らの発する言葉もそれらは彼らの肉体や心から発せられて彼らそのものを表していたからだった。それはすなわち経験と呼ぶものであったからである。経験がなく言語処理のみで理解してきた僕にとってこれは同時に新しい世界の発見であった。大津皇子石川郎女の間に生まれた和歌のいのちは恋という言葉だった。同時に小侍従や源頼政平忠度の和歌のいのちもまた恋であった。恋?言語として知っていたその意味は何ら意味をなさなかったのだ。彼ら彼女らの遺した和歌によってそれぞれの人生の中での心を受け取ることが可能になったのである。自然への憧憬、恋への憧憬、死への憧憬までもが和歌の言葉によって真実として伝えられたのである。共時性と共感は追体験という体験に於いてその力を発揮し僕を物語の中へいざなってくれるのだった。真実の中へ。

 

子曰、書不盡言、言不盡意。               「易経」繋辞上伝
子曰く、書は言を尽くさず、言は意を尽くさず。


意(こころ)は言葉に表れ、言葉によって書は生まれる。しかし、言葉も書も意を十全に伝えることはできない。だからこそ文芸は生まれたのである。自分の思いを伝えるもどかしさ困難さとの格闘を孔子は理解していた。言葉は心を尽くせない、だから詩経は生まれ、日本では和歌となった。文芸は意の大海のごとくである。僕たちはその大海に浮かぶ笹舟のようなものである。

 

 

 

写真 大原野勝持寺近辺

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