pakin’s blog

主に創作を主体とします。ただし、人権無視の最たる原発問題や、子どもの健康や命を軽んじる時事問題には反応します。

竹取幻想31

 

「おお、そうよ。小侍従様、因んだ万葉の歌を如何でござりましょうや」

 兼綱様が私に話を振ってくださいました。


  千葉の野の児手柏のほほまれど
        あやに愛しみ置きて誰が来ぬ
                   大田部足人


「恋しい人を、子どもの手のように可愛い花に喩えて、旅立った若者が、あやに、つまり、言いようもなく愛しく思いながら、手も触れずに来てしまいました。そのようなお歌です。」


 私も王翰様の詩は存じ上げております。若き頃、その端正にして見事な対句による、例えようもない美しさと哀しみに胸を打たれた事を鮮やかに思い出して居りました。まさに、競様が仰るように深い慟哭、その人知れず西域の沙上で慟哭するさまを。戦によって遥か辺境に駆り出され、いつ帰る事ができるのか、いや、そんな希望さえ失い、絶望の孤独の中、星の降り注ぐ砂漠に酔うてうち伏すお姿。何という哀しみ。しかしまた何という美しさ。喩えようもない悲劇に美しさも与えてしまう、その王翰様の古今の絶唱とも呼ぶべき御詩に比肩すべきお歌を探すより、いや比肩すべきなどとは私の恥ずべき心根と承知し、その詩の対極にある、愛すべき防人の小品をご紹介申しました。ひたすら小さな可憐な花、その純情の愛の歌を。


「おお〜、また何と愛らしい歌でございますなぁ。」
景光さまが仰います。


 景光さまも防人の若者の心をお読み取りなさって、始終配膳やら気を配りながらご自分も勧められるままにお飲みになって、楽しそうに座に溶け込んでいらっしゃるのでした。


「まこと愛らしい。愛すべき娘に手を出さずに耐えながらも、誰が来ぬ、か、しかしそんな自分に後悔しておるのではないな。後悔しておるなら、こうは歌わぬ。純そのままに歌ったのだろうな。しかしなあ防人として東国から狩りだされ、家族も仕事もあろうにのう、恋うる人もあろうにのう、いかに辛いことだったろうか、まつりごとに翻弄される東国農民の辛さは、話によると、東国の人々の力を弱める目的もあったと。非道よのう、まつりごととは・・・戦は我々武人のみでよいのだ」


 康忠様がしみじみと仰います。


「なるほど!日本の方々、そのような方も詩を詠むのですね!驚きました。我が国の詩は極々選ばれた才能のある詩人のみが作ります。農民の方々も歌を詠むとは本当に素晴らしい事です!しかも、皆さん仰る通り、なんて愛すべきかわいい歌でしょうか。康忠様のお話から、私さえこの可愛い歌のなかにも涼州詞と同じ悲しみが溢れているように感じます。国は違えど人の心は同じですね。まったくよく分かりました。小侍従さま、お教えいただきありがとうございます」

 

 

・写真 勝持寺