pakin’s blog

主に創作を主体とします。ただし、人権無視の最たる原発問題や、子どもの健康や命を軽んじる時事問題には反応します。

『竹取幻想』へのポラリスさんのご感想

お気に入りさんのポラリスさんより、拙作『竹取幻想』へのご感想をいただきました。素晴らしい文章です。私だけに留め置くのは勿体ないので、氏のご了解をいただき、以下、公開致します。
           (一部改行の責は私)

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

     <竹取幻想>の希求する風景    


 戦乱や昏迷が蔓延し天変や地異が発生して、ひとびとの心に<無常>が砂塵のように乱舞した。その末法の世情の姿をかつて「平家物語」が描いて見せた。この「竹取幻想」一作は、その時代の風景に上書きするようにして、現代という時間を交錯させて、希求すべき未来の風景を構想した――――「諸行無常や因果俱時という『定め』にいかに抗するか」という、作者の<救済>の物語。

 

 おそらくは高校生への自主教材として供したいという思いのなかで、若きかれらへの未来への希求の<かたち>を、自らの生活史の重量を架けて描かれたように思います。それは教育者として作者の生きざまを映した、感慨や思想や希求を刷り込むようにして、作品のなかに自ら生き綴った十年という時間を投影した一作を見る思いであった。

 

 ―――厳島神社の平舞台。小侍従が佇つ。

 

 「月が中天に掛かり、銀河は影を薄め、波は一層煌めいています。このまま時が止まってくれたら・・・」
 
 そして西行が登場する。静かなる、小侍従が琴の秘曲を奏でる場面。
 物語に秘められた<静謐>が虚空へと飛翔していく。


―――(一つの音が琴から空に舞い始めます。しだいに、重なる音が群舞を始めます。まるで桜の花が一陣の風に舞い散るように薄桜、薄紅藤、韓紅、若紫、翡翠色・・・音は様々な色をまとい舞うのでした。様々な色の薄衣を纏う音の主たちの宴の始りです。華麗なそんな音たちですが、はじき出す度に静寂はまた底知れず深まっていったのです。そんな静かさは孤独を知らぬ私の大切な友でした)

 

 厳島の夜が<静謐>の密度を濃くするにつれ、琴の音が沁み入るようになびき、満つる月の浄き光を浴びて、生命(いのち)との邂逅に触れたひとびとが涙したのだ。

 引用した「(・・・)」丸括弧で括られた文章は、この物語の文脈とは別に奏でられる琴の音が虚空に爪弾かれる<幻想>の描写。わたしにはこの「(・・・)」の描写が、暗喩として<ことば>が詠われる風景を、琴の音の韻(ひびき)に触れて語っているように思われます。この物語を律している<静謐>というのは、深いところで作者が発するひとひとつの<ことば>を、この物語の<虚空>に映し出しているように思うのです。この物語を<書くこと>にこめた作者の希求を秘めた<ことば>と、小侍従の琴に秘められた<音>が、<虚空>に紡がれて共鳴そして共感してやまない。それがこの物語の空間と時間を構想しているように思います。小侍従を作者が投じ、小侍従が作者を映じるという交感の物語でもある。作者はこの交感を若きジョバンニの<恋>にみごとに転写してみせます。

 

 西行の<ことば>が生命(いのち)の海の彼方から聞こえてきます。

 

 ―――「『拙僧にとって月や華とは、なに、そのままみ仏でござるよ』・・・一木一草悉皆成仏も因果俱時のその深い教えの海のなかに輝いています。」

 

 この西行の<ことば>が生身の西行の声のように韻(ひび)いてきます。これは作者の造型力のなせる技でしょう。平安の末期の無常と現代の世情の末法的な風景を交錯させる。小侍従とジョバンニが時空を越えて語り合う――――小侍従の琴の音が虚空から舞い降りて様々な薄衣の色の群舞となったように・・・。あたかも「銀河鉄道」の車窓に、いろいろな花がまるで曼荼羅華のように輝き芳しく宇宙の漆黒に映し出された―――そして、ジョバンニの古い記憶のDNAに生命(いのち)の輝く光を与えた・・。

 

 確かに、時間が直進するものだという妄想に取り憑かれることで、ホモ・サピエンスは文明(知)という繁栄の武器を手に入れた。それは大脳新皮質の仕業だった。自己を凌駕していくという文明の二律背反的な自己増殖過程の超克を、ジョバンニの地球からの脱出という未来への投企にみることになったと言っていい。

 

 時間も空間もそんな花々の渦の輝きのなかで直進するかに見せながら螺旋を描き、また遡行して融け合っていく。宇宙という広大無辺の海のなかで・・・。

 

 ひとつの音が、そしてひとひらの花びらが、太古の記憶を拓いて、生命(いのち)を孕んで静かに謐(ひそ)やかに―――悠久の時をわたしたちの生命(いのち)は存えてきた、歓びや哀しみの海に漂って・・・。


 そして慈しみに溢れた心の邂逅こそが、生きていることの始原の歓びを秘めて、生命(いのち)が回帰していく曼荼羅を仰ぎ見るようです。そんな生命(いのち)を宿した姿を、わたしたちは宿命(さだめ)という<ことば>で呼んでいます。それは運命論者であることを告げているのでもなく、あるいは死に向かって生きていくことの思いの収まりをつけようとしているのでもなく、地上に生まれてきたことをそしてその時代に生きたことを<さだめ>と書いています。

 

 物語のなかでそれぞれがその<死>を受け入れていく物語の終末、小侍従の告げる登場人物のたちの生きざまの最後の姿は、時代のなかで己を全うしたという意味で、己に宿った生命(いのち)の<さだめ>をよく生きたということであろうと思われます。それぞれの者たちの生命(いのち)に、そして時代のなかで己に向き合う生きざまが、作者の深い慈しみによって埋め尽くされているように思われます。

 

 人間の生命(いのち)が辿った五億年という時間。そしてその果てに辿りついたひとつの生命(いのち)としての自身であるという、言わば生命(いのち)の佇まいを<さだめ>と思っている。ひとびとが共感ではなく、競いそして諍い生命(いのち)が哀しみの<さだめ>を負うようになったのは・・・。本源的に<死>は無常の哀しみに塗れたものではなく、<死>は豊穣の海に帰るの手立てであったかもしれない・・・。そういう意味では生命(いのち)は悠久という時間を旅しているのかもしれません。


 <竹取幻想>が物語として披こうとしたのは、そして教材として啓こうとしたのは、生命(いのち)への希求であったように思います。

 

 物語の終末近く、作者が唐突の如くに宮沢賢治の「農民芸術概論綱要」なる一篇を提出します。そのなかに、時代へのそして自らの生きざまへの<檄>であった文章を引用します――――

 「宗教は疲れていて近代科学は置換され然も科学は冷たく暗い / 芸術はわれらも離れ然もわびしく堕落した /  いま宗教家芸術家とは真善若しくは美を独占し販(あきな)ふものである / われらは贖(あがな)ぬべき力なく、又さるものを必要とせぬ / いまやわれらは正しい道を行き われらの美を創らねばならぬ / 芸術をもってあの灰色の労働を燃やせ」

 いまの世にもなお、この鮮烈な認識と清冽な意志が<虚空>に翻るがごとき<檄>として靡くように、それは若きかれらへの<檄>でもあるかのごとくに。自らがかつて置き去りにした風景を喚起してやまない・・・。
 宮沢賢治の見透している世界は、現在の世界を射程に、<空虚>の蔓延した風景から、広大無辺の全てを包み込む
<虚空>の世界への希求あるいは誓願の物語そのものである。そしてこの物語が窮していく世界のなかでなお生きていかねばならない若いかれらへの、作者のエール(自主教材)という熱い思いを表象して止まないものがある。その意味では作者は、宮沢賢治のごとくに<檄>しているのだ―――「国語をもってあの灰色の受験勉強を燃やせ」と。

 思い出したことがある。あれは高校一年の国語の時間だった。宮沢賢治の文章が教科書に取り上げられていたがそれがなにだったかは覚えていない。そのとき若い国語の教師がプリントを生徒に配りだしたのだ。それは今でも鮮明に記憶に残っている――――「けふのうちに とほくにいってしまふわたしのいもうとよ」という<ことば>ではじまる「永訣の朝」だった。この詩で<宮沢賢治>という存在を刻み込まれた。
                   (了)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


拙作に対し、とても深いご理解を賜りました。まことに出した甲斐がありました。心より感謝申し上げます。また、蛇足ですが、ポラリスさんが「農民芸術概論綱要」の別の文章と「永訣の朝」を付与して下さったことは、まことに作者冥利です。『竹取幻想』の発展的鑑賞の見事なお手本でしょう。感服いたしました。