pakin’s blog

主に創作を主体とします。ただし、人権無視の最たる原発問題や、子どもの健康や命を軽んじる時事問題には反応します。

ある日のロビン

ある日のロビン

                   

また例のごとく、私は余りに良い春の陽気に誘われて、昼下がりにふらふらと散歩にでた。山の上にある団地内を散策するだけでゆうに一時間は楽しめる。家々の庭の花や公園の木々を見ながら、定年退職した私は健康上の意味に加え散歩する楽しみを見つけたのだ。そんな私が健康について意識的に歩くようになったのは十数年前になる。
 

当時、職場で有能だった私より若い男性教員が相次いで二名、自殺や不審死を遂げた。近隣の養 護学校でも中年の男性教員が自殺した。教員らのイジメであった。狂気の渦巻く世界だったのだ。普通高校から気まぐれに養護学校へ転勤した私はそのような世界に 耐性を持たなかった。私は死なずに済んだが重い鬱病を患った。私は休職中に、復帰に向けて、どん底に落ちた体力を立て直そうとした。


 鬱病発症後に体重七十キロを軽く超え、初めてベッドから離れて庭に出ようとした時は思いもかけず転倒してしまった。その時の愕然とした気持ちは忘れない。三十代始めの頃の体力は高校生の平均をまだ上回っていたが、自信は完全に喪失した。その事があってから、家族の者に支えてもらいながら、徐々に歩行距離を伸ばす事に努力した。一年ののち自力で近隣の山歩きができるようになった。近隣の山の魅力を認識したのもこの経験からである。その後、復帰して山歩きの余裕も消え職場の問題に翻弄されながら定年退職まで、何とか持ちこたえたのだが、退職後の健診で糖尿病と診断された。糖尿病は父からの遺伝でもあるが、心身を疎かにした退職までの十年間が響いたのだ。


 退職後、余裕のできるはずが、父の名言通り、アテとモッコは向こうから外れるのだ。長男としての両親の介護問題は退職前からその萌芽があったが、退職後に直面する事になったのだった。兄弟で退職した者は私一人。それまで医師である次男が面倒を見てたが、その次男の独立を機に、私ら家族が看ることになった。そこに、東北大震災が降りかかった。私の退職の一月前のことだった。当時、実家に戻っていた両親の家は津波の押し寄せた範囲から僅かに離れていたが、その三ヶ月後に父は脳溢血であっけなく他界した。九一歳の誕生日を迎えた日だった。本人は百二十歳まで生きると宣言していたものだ。

 

海軍の生き残りでその精神的な後遺症は身体の障害よりも辛かったはずだ。なぜ百二十歳を目標にしたのか。おそらく、戦場の死の恐怖が父の心の奥底に拭いがたく蛭のように食いついていたのだ。父が終戦間際に呉沖に停泊していた艦が爆撃で沈没し、意識を失っていた父を友人が抱えて港まで泳いでいったという話を聞いた。晩年に認知症が父の脳に深く進攻するまで、その蛭は夜な夜な悪夢となって父を苦しめていたのだった。その父の死後、次第に速度を速めて心身が衰弱してゆく母親を看ながら、親族の問題も被り、自分の健康に配慮する余裕は無かった。年に数度の、西への1人旅が私の体力を試した。湖東三山巡りや、奈良は奥吉野の、更に奥の西行庵まで歩き、また酷暑の大阪徘徊などは自分の体力を確認する事にも役立った。それから母親の施設入所や病院入院の繰り返しが始まり、見舞いがてらに毎日施設や病院を自宅から歩いて往復する事が日課となり、さらに体力も向上していった。母が亡くなるまでの約一年半の事だった。体力が戻ったのはひとえに母のおかげである。体力問題以外に、歩く事の魅力も再確認した。季節、自然、町、人々、歩くことでそれらは単なる「景観」ではない、肌身に感じる生きた魅力をもたらした。しかし、以前からの糖尿病の数値は高止まりのままであった。HbA一cは国際基準値で7.6~7.8まで上昇していた。薬で抑えるよりまずは自力で抑えることを私は選び、食事療法として糖質制限食を摂ることにしたが、完全糖質制限食を日に三度は困難であったので、中程度の制限、即ち、昼夜の食事に対し軽く糖質制限を果たした。同時に、歩く事に再び積極的に取り組んだ。幸い、この地は歩くに環境が良くありがたさを理解した。その結果であるが、HbA一cは今月6.1まで低下して、糖尿病の判断基準値の6.5を下回ったのである。体重は六〇キロを切るか切らぬかのところで収まっている。ピークに比べ一〇数キロ減。ここまで体重を落とせば身体もまた軽くなる。軽くなれば歩く事は更に楽しくなるのである。

 

さらに、楽しみのバリエーションを持つためには近隣の峰続きの山歩きに加え、山を下りて昔から続くあちこちの小さな集落まで歩くのだが、今日は遅い出発なので、麓の始めにある集落まで巡ることにした。舗装道路を下りていくと集落に続く枝分かれの小径に出る。木々が覆い被さる径を下っていく。麓を走る電車の踏切を渡り、森の小径を行くと、がたごとと乳母車を押した小さなお婆さんに出会った。乳母車にはテリアの老犬が赤ん坊代わりにニコニコ顔で乗っていた。

「おや、可愛がってますね。」と言うと

「まぁ歳だでな~」と幾分はこもった発音ながらしっかりした声音である。

直角に腰の曲がったお婆さんの方がお歳に見えるが、なんの元気そのものである。色白の膚の艶は日差しに輝いている。

「こうやって、外に出してやらんと機嫌悪くてしゃあない。」

と、歯が隙間だらけの皺くちゃ顔で、ご自分も上機嫌で、被ったタオルで汗をぬぐいながらおっしゃる。私の方から見ると、ニコニコ顔の老犬の上にお婆さんの顔がのっかっている塩梅である。気心知れた間柄とはこういうものだな。

「お気を付けて!」

「あいあい」

でこぼこ道をまたガタンコ押して、小さなお婆さんは木漏れ日の中、枝分かれした小径の、したたる緑の森の奥へと妖精のように消えていった。

うっすら汗ばむ陽気だが、時折吹き寄せる風が甘い花の匂いを運んでくる。桐の花だろうか。たまらんねえ。まだ日は中天から少し斜めに辺りを照らし、里山の集落は明るく、新緑に萌える山々の間に浮かんでいる。

集落に入る道の始めにその家があった。大谷石の門の脇に板が立てられて「ロビンあります」と書いてある。この道をいままで何度も通ったはずだが、気づかなかった。

「ロビンあります」さっぱり分からぬ。その斜め上の門扉に「ワラビあります」とダンボール紙に書かれた札が吊り下げられている。「はは~ん、売り物か」と、当たり前の事を考えて柵の内側に目をやると、草むらに置かれた、丸太を半分にカットした長テーブルの上にニャンコが四匹寝そべっている。さっきのテリアよろしく木漏れ日の下で気持ちよさそうである。他にも幾匹か広い庭の草むらの中に遊んでいる。しばらく見入ってしまった。

 

「おい!」しわがれた大声が私を呼んでいる。あたりに誰もいないのだから私を呼んでいるに違いないが、「おい!」と見知らぬ男に声をかけられたのは大昔の学生のころに記憶があるくらいだ。門の奥の母屋の左手に蔵があるが、そこに背の高い男が私を手招きしながら立っていた。

「おい!こっち来い!」

集落の人に声をかけられたのは初めてで、勿論初対面である。相手は私より顔のしわが深く、長靴をはいて仁王立ちしている。農家のじい様然としていたが、一メーター八十センチは超えた長身で背筋がしっかり伸びている。乱暴な物言いに、さてどうしたものかと一瞬思案したが、その顔が素直に笑っているので、呼ばれるままに門から入っていった。

 

彼は私を蔵の中に案内した。その蔵の中は自分でリフォームした自慢の蔵だったのだ。真新しい杉材が壁や床に張り巡らされて壁の一画は小窓まで拵えてある。部屋の中央には掘りごたつが切ってあって、ガラスのテーブルが置かれていた。飾り棚に彼のミニカーのコレクションが並んでいる。

「これはアンチモニーのポルシェだ」

飾り棚の一番高い段の奥から一台引っ張り出して見せてくれた。掌に収まるがずっしりとした重さがある。孫がやってきては持っていくので大事なミニカーは自分の部屋に隠したと笑う。このじい様はこの昼間から酔っていた。つまり私はその無聊の相手にされた訳だが、彼は母屋からガラスの器に紅茶を淹れてこぼさずに運んでくれた。互いに名乗りあったあと、彼は私に酒はどうかと勧めてきたが、彼はいつの間にか自分のグラスに焼酎を注いで飲んでいる。私もお相伴するしかない。さっき庭の草むらで駆け回っていた子どものシャム猫がいつの間にか胡坐にのっかてくる。モモと彼は呼んだ。人懐っこいモモは私の膝の上で盛んにじゃれていた。

「おい、モモを連れて行くなよな。」

じい様は半分真顔で言う。

「こいつは一番かわいいやつだからな。」

私も家に四匹の猫を飼っているので、その匂いをモモは感じているのだろうと言った。

「そうか、あんたも猫が好きか。」

じい様は喜んだ。

「やはりな。あんた、さっき門の外から庭の猫たちを覗いてたろ。ああ、こいつは猫好きだとわかった。しかし、モモは連れて行くなよな。」

手酌で盃をあおりながら爺さんは言う。あけ放った戸と窓から心地よい風が吹き込んでくる。

「ああ、うちも猫はたくさんいる。これ以上は飼いたくても無理だ。しかしうちの猫たちは全員保護された猫でな。二匹は福島の浪江から保護されてうちに来た。あとの二匹は飼い主が死んだあと保護されて来た。」

「そうか、よく浪江から来たな。」

「ああ、原発の作業員たちが自分の弁当などを与えてかわいがってくれていたそうだ。それを保護活動していた人たちに連れてこられたんだよ。」

「そうか。そりゃあ良かった。で、あとの二匹は?」

「一匹は飼い主が自分の家で亡くなったあと数日後に息子に発見されたらしい。その時、俺たちはナナと呼んでるが、ナナがじっと飼い主のそばにうずくまっていたそうだ。息子はナナを友人に預かってもらったが、その友人を介して我が家に来た。もう一匹はやはり飼い主が死んだあとに親族が来て、これはミーと呼んでんだが、ミーをマンションから外に放り出したそうだ。見てた人がいたらしい。近所の女性が十日後に納屋の中に隠れていたミーを発見したそうだ。亡くなった人とその近所の女性は知り合いでミーをよく知っていた。それでその女性が保護したのだが、その女性も自宅で飼う事が出来ずに私に譲ってくれたわけだ。」

「そうか、かわいそうな話だな。」

じい様は飲むほど顔が青くなってくる。

「うちの猫、八匹いるがみんな貰ったり拾ってきた。」

じい様は少ししんみりとしてきた。

「このモモちゃん、果物のモモか?」

「アハハ、おめえ、単純だな、アハハ。」

笑顔に戻ったじい様が人を馬鹿にして喜んでいる。

「これ食え」

じい様は菓子皿に載せた煎餅やチョコレートを出してきた。

「おい!谷村新司!スバル歌え!」

ちょい待ち、私はいくら何でも谷村新司よりはいい男のはずだが。酔っ払いだからしょうがない。もう私は酔っていた。

 

目を閉じて 何も見えず

哀しくて目を開ければ

荒野に向かう道より

他に見えるものはなし

嗚ゝ 砕け散る宿命の星たちよ~

せめて密やかに この身を照せよ~

我は行く 蒼白き頬のままで我は行く さらば昴よ~

 

昼下がりの、この静寂きわまる里山の小さな集落に、酔っ払い年寄り二人のだみ声の、調子の外れた歌が響き渡った。

「俺はよ、ここの生まれでここの学校に通った。高校も行ったが、悪い学校でな。」

ああ、近在で悪い高校と言えばすぐわかる。

「俺は刑務所にも入った」と、さらりと言う。

近くの街の某自動車メーカーで若い頃働き整備士の資格も取ったが、オイルショックの煽りでクビになったという。「喧嘩でな、相手を二人入院させちまった。」

メーカーを首になってから板前になったと言う。その板前修業が終わって居酒屋で働いていた時に客数人と乱闘になったのだった。

「たちの悪い連中でな、よく店に来てたんだがある晩、客の女たちに絡みだして手が付けられねえ。俺が外に引きずり出して相手してやった。」

「そんで居酒屋も終わり。俺は他の店に移って働いていたがな、ムショ帰りって後ろ指さされてやってられなくなった。遠く都会に行く気はなかったからな、この実家に帰って親の畑を継いで百姓やってんだよ。俺のかみさんは今も蕎麦屋で働いてくれてるからな、助かるわい。俺の体はな、麻酔が効かねえんだ。まえに盲腸で入院した時ひでえ目にあったぜ。」

互いに酔いが話の脈絡を失わせていく。

「おい、谷村新司!どこの車に乗ってる?」

もう二十年以上グロリアだと答えると相好を崩して喜んだ。

「二十年以上、エンジンもバリバリだぜ。実にいい車だ。歳だがな」

「いいねえグロリア、タテ目か?」と突っ込んできた。

残念!横目である。

タテ目はカッコいいねえ」と私も相槌をうつ。

「俺は車が好きでなあ、仲間と都内のクラッシクカーパレードなんかにもよく行ったもんだ。あ、軽井沢にも行ったな。俺が運転したこともあった。」

そうつぶやきながらじい様は窓の外をぼんやり見ていた。

ゆっくり雑談に興じた。日差しが小窓から座敷の奥に差し込むようになった。さて、帰るぞ、と言うと

谷村新司!また来いよな」と始まる。

門まで送ってきたが、「おい、ちょっと来い」と私を脇の畑に連れて行った。

家の前を車が一台通ったが、じい様が「よう!」と声をかけても一瞥するだけで通り過ぎて行った。

「これ好きなだけ持ってけ!」

蕗が畑の一角に育っている。ありがたや、包丁を借りてひと束頂戴した。畑で使う包丁だったが、切れ味が良い。やはり元調理人であったのだ。

「おい!あれも持ってけ!」と、隣の畑の隅にトタンやらダンボール紙で囲ったところに私を連れて行った

。山独活であった。山菜取りのプロだったのだ。土を掘り根っこから引き抜くこと八本。「葉はおひたし、後は酢味噌だ」

私は天ぷらにする気でいる。

「また来いよな!」

握手を繰り返してハグしてきた。背が高い上にガッシリした体格である。彼もおそらく私の体格を確認している。笑い合いながら別れた。モモたちが門の周りに集まっていた。日はだいぶ傾き風も肌寒くなっていた。薄暗くなった森の小径を登りながら、私と同年のじい様の前歯が上下二本ずつしかないのを思い出していた。

 

それからしばらく過ぎた、暗雲立ち込める、梅雨入りの翌日の夕べのこと。薄暗くなったなか、私は近くのコンビニに煙草を買いに出かけた。マルメロ二箱買って店を出たところで聞き覚えのあるダミ声が背後から私を呼んでいる。

「おい、谷村新司!」

そう私を呼ぶ奴はこの団地にはいない。あ奴だな。すぐわかった。彼は麓から歩いてコンビニに来たのだった。前回と同じで酔ってそうだ。つまり彼は年中酔ってるに違いない。「お、ロビンのおやじか!」私は今度こ奴に逢ったらそう呼んでやろうと決めていたのである。

 

あとで日記を見たら四月二一日に出逢っていたので、もう一月半過ぎていた。彼は相変わらず長靴で農作業のいでたちである。手に買い込んだ袋を下げ、前歯の欠けた、日焼けした顔でニタニタ笑っている。

「きたあかりがあるで、取りに来い」と威張っている。

「ほう、じゃあ、頂こう!」好意には素直な私である。

「じゃあ、うちに寄ってけ。車で家まで送ってやる」

言われたロビンおやじは待ってましたとばかりに喜んで着いてきた。

「いい車乗ってんなあ!アルファロメオ!いいねえ!」

玄関前の車庫で車を見ながら大声で叫んでいる。実はアルファロメオのミトを先月中古で買ったのである。六万キロ乗られて三年落ちで安かったのだ。それまで乗っていたグロリアは二三年乗った愛着のしみ込んだいい車だったが、さすがにメンテが大変になっていたのだった。

「いいなあ!アルファロメオ!」

「いいなあ!このエンブレム!」

地声の大きいロビンだから何度も繰り返されると団地内に響き渡る。酔ってるからしようがない。大男にはチョイ窮屈な後部席に乗せて麓の家まで行った。着くと真っ先にペルシャ猫のモモが走ってきてまとわりついた。ロビンが一番かわいがってる人懐こい猫だ。今回は、おい、モモは持っていくなよ、とは言わなかった。

「おい、袋持ってきたか」

「ない!」

「おい、軍手は?」

「ない!」

「しょうがねえなあ」

ロビン親父は偉そうに言い捨てると、物置から袋と熊手を持ってきて私に渡し屋敷内の畑に連れて行った。そのとき、彼はコンビニで買ったものを入れた袋を私に預けたのだが、見ると箱入りの焼酎が三本入っていた。やはりな。

 

畑にはトウモロコシも大きく育っていた。

「これな、ゴールドラッシュてな、店にはあんま売ってねえんだよ。甘いし柔らかい。生で食えるぜ。育ったらやるよ。」

トウモロコシ大好きの私である。

「いただき!」というと喜ぶロビンである。

「簡単に言うなあ、谷村新司!」

「アハハ、好意は素直に受け取るものである」

「アハハ」とロビンも笑う。

ジャガイモの茎をロビンは引き抜いていく。私が掘る。

「おい!ほれ、ここ掘れ!」いちいちうるさいオヤジだ。

「ここ掘れワンワンか」と言ってやるとロビンは大いに悦んだ。

畑に宝が埋まってんだなと言うと嬉しそうにうなずいた。結局、きたあかりと男爵合わせて五キロはある。スナップエンドウもおまけにいただいた。これね、ウヒヒヒ、掘りたての塩ゆで・・・美味いのだ。闇が里山を覆い、踊るように足元まで迫ってきた。

「そうだ、訊くのを忘れてた。ロビンってなんだ」

「ああ、それか。ネギとかを小麦粉で巻いて揚げたやつだよ。中国の食いものでな。調味料の合わせ方とか揚げ方とか結構難しい。おれの嫁さんは好物にしてるよ」

「春巻きみたいなもんか」

「ま、そうだな」

この、そうだな、はかなりいい加減な返事だ。食い物の名前だった。そういえばこの男は以前調理師もやっていたことを思い出した。車の修理もやり、蔵を改築したりと器用な男である。つまり頭がいい。つまり油断ならぬのである。料理の勉強と称して中国に行って食い歩いたらしい。それにしても変な名前だ。ロビン・・・しかし、深く考えるのはやめた。ロビン親父がロビンと呼んでいるのだから、それでいい。

「じゃあな、ありがとな。また来るよ。」

「ああ、また来いよな!」車を発進させ窓から手を振った。彼も手を振った。そして「ワハハ!」という大声が後ろの闇から響いてきた。

 

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