pakin’s blog

主に創作を主体とします。ただし、人権無視の最たる原発問題や、子どもの健康や命を軽んじる時事問題には反応します。

竹取幻想73

 鞆の浦を出て黄山号は鏡のような静かな海を相変わらず滑るように進んでいきます。浦を出るとまた入鹿たちが子どもたちと遊んでいます。

 

「夕刻には安芸の湊に着きたいものじゃのう」蔡さまがおっしゃいます。

「潮の流れに乗っておりますから速力全開で進めば可能でしょう。のう勘助殿」と李船長は航海長と目を合わせながらおっしゃいます。

「そうでござりますなあ。黄山号の速力は私が乗船させて頂いた船のなかで最も早い。帆だけでなく櫂も加われば夕刻には御着きになられますな。潮の流れも追い風も完璧です。船の速度もまた大幅に上がりましょう。これから難関の芸予諸島海域に入ります。ほれ、右手に見えてきた弓削島とその左にある小さい島の間を抜けますじゃ。そしてそのまま伯方島、大島を右手に抜けると最も難しい来島海峡じゃ。左手は伊予でございます。流れは激しく大きな渦潮も怖い。昔からどれほどの舟人が命をおとしたことか。一に来島、二に鳴門、三に馬関瀬戸と言われておりましてな。」

 

「なぜわざわざそんな難しい海峡を選ぶのですか」と文祐さまがお尋ねになりました。

 

「おお、文祐さまと申された方ですな。さあ何ゆえにでござりますかな」と勘助さんは褐色の深い皺の刻まれたお顔でにこにこ微笑んで文祐さまにお話しを向けられます。清親さまも興味深いご様子です。

 

「うーん、わざわざ困難を選ぶのは己の修行のためとしか考えてきませんでしたが・・・そうだ、なにか利が、大きな困難に勝る利がありましょうや」

「そうでござるのう。正解と申しあげます」


「実は来島海峡の潮の流れはここいらで一番早い。次に海峡の幅も一番広い。この多島海においては一番大事なことでな。幅が狭まるほど座礁の危険性が増しますわい。潮の干満の差も大きいでな。安全な深さの流れを選らばないと一巻の終わりとなる。座礁船は海賊どもの餌食じゃて。その積み荷は拾うてよい慣わしになっておるでな。あちこちの島の見張りはそのためもある。すなわち、海峡の広さは航行の安全のため一番大事だて。しかし少しでも油断したら座礁する。まあうまく潮の流れに乗れば船の速度も大いに上がる。潮の早い流れと渦潮は儂にお任せあれ。儂はもう六十年以上この瀬戸内の海に親しんでおるからの」

 

「おお、海賊か、忘れておったが出るとしたら来島海峡を抜けてからであろうかの」と兼綱さまがおっしゃいます。

 

「海賊たちは小さな島影に潜んでおりますでな。潮の緩やかな海域でゆっくり航行するところを狙いますじゃ。じゃが、先ほど話が出ましたが、まずご心配には及びませんな。これほどの宋の大艦、帆柱の宋国国旗と明港所属の旗、加えて、かつて平清盛様のお父上であられた平忠盛様が海賊追捕を成功なさり、いまは海賊どもは伊予全体でも数百人ほど。ほとんどは村上家水軍に組み込まれております。またその支配が越智郡を中心に東は新居郡、西は伊予郡に及んでいる新居氏の子孫で、高市盛義様がおられますが、清盛公がその高市様の烏帽子親となられておられます。そんな彼らが宋船の、清盛公の大切なお客様である皆様に手出しできようはずもありませんわ」

 

「おう、それと、これこそ大事なことでござるが、清盛公が造営なされた厳島神社・・・海の神を祀る社として瀬戸内の海の者たち全員の尊崇の場、皆さま方は厳島参拝の旅とお聞きし申した。されば我々と同じ。厳島参拝の方々を襲うなどあり得ぬでござる。たまに通行税じゃとぬかして小銭をもらう輩たちもおるがな、万が一、何も知らぬ蒙昧の海賊が現れたとしても儂が話をつけようぞ。お任せ下され」

 皆さま勘助さまのお話にうなずいておられます。

 


 いよいよ来島海峡が見えてきました。いつのまにか入鹿たちも姿を消し、子どもたちも私たちのそばに寄ってきました。

 

「酉舵~卯面舵~!」


 矢継ぎ早に勘助さまの指示が飛びます。航海長から操舵手へと素早く指示が回り船は右に左に大きく舵をとりながら進んでいきます。両舷の櫂も掛け声とともに波しぶきを高く飛ばしながら全力で漕いでいます。

 

 流れの速いこと、船は大きく左右に揺れながら進んでいきますが、私たちはみな固唾をのみながら船の進行を見守るばかりです。手に汗握るとかこんなことなのでしょう。

 

子どもたちも潮の流れや渦潮を見たくてたまりません。
「おんぶ!」とか「肩車して!」とか大騒ぎです。
「よいか、しっかりつかまっておれよ。海に落ちたら助けられんぞ。わかったな!」
文徳さまは菊丸をおんぶし、文祐さまは雪丸を肩車して船べりにつかまっています。あら、つわぶきはいつの間にか、真っ青な顔で文徳さまのお袖を握って離しません。船は左右に揺れ上下に揺れ、私は恐ろしさに船べりにしがみついておりましたが、子どもたちはわあわあきゃあきゃあの大騒ぎで、あの猿丸などは帆綱につかまり船員の方々も手が付けられません。

 

 誰かいないと思ったら成清です。

「ああ、成清様はなにかお仕事があるとかで船室に戻られています」と周さんが教えてくれました。やはりね、怖くて逃げたんだわとすぐ分かります。

 

 馬島や小島を右手に、左は来島の岬を見ながら船は全速力で進んでいきます。櫂の上げる飛沫が時おり飛びかかってくるたびに子どもたちの歓声があがります。渦潮が迫ると
「渦潮だ~右に逃げろ~!」と、あれは烏丸ですね。身長は犬丸、あ、文祐さまとほぼ同じくらいですが2歳下の子です。興奮して叫んでいます。


 ほどなく・・・いや小半時は過ぎましたか、ようやく来島を抜けて静かな海に入りました。
「あ~面白かった!」
 子どもたちのそんな言葉に李船長は笑顔で頷いていらっしゃいます。

 

「さて、次は大崎下島を右に倉橋島江田島に向かって進んでいきます。停泊地はそのいずれかの島の泊りとなりますな。夕刻には着きましょう」

 勘助さまのお話ではもう心配な航路はない、あるとすれば倉橋島音戸の瀬戸かと。

音戸の瀬戸はな、かの清盛公が開削を命じられてできた海峡でな。狭いが潮の流れは穏やか。海峡の両側には平家の見番屋があり安心じゃ」

 

 あら、いつの間にか成清が後ろに立って偉そうに話をしています。恥ずかしい男です。

 そして船は無事に倉橋島音戸の瀬戸を抜けて、薄暮の迫るころ、天然の良港と呼ばれている江田島の切串という泊りに到着しました。ああ、もうすぐ宮島・・・厳島神社に参拝できるのです・・・

 

 

 

 

写真、当時の安芸湾(広島)

http://www.rijo-castle.jp/RIJO_HP/contents/06_kids/02_sirouya/conimages/156_sirouya22.pdf
より拝借。

このような絵を見るたびにいにしえの日本の美しさに感動します。