pakin’s blog

主に創作を主体とします。ただし、人権無視の最たる原発問題や、子どもの健康や命を軽んじる時事問題には反応します。

竹取幻想76

              終章

 

        一 厳島

 

 舟のスクリーンが遠くの銀河をまだぼんやりと鈍いスペクトルで映し出している。無数の星々は相変わらず点滅しながら水晶にろ過された光のように眩くあらゆる色彩を放ち、光は舟の天蓋を流れるように滑っていく。

 

 僕はずっと小侍従の物語る話を聴いていた。それは僕には驚きの世界だったのだ。マザーのデータはデータ、で、しかなかった。人類が蓄積した膨大なデータ。それはもちろん有益ではある。僕だってその恩恵の上に自分を作ってきたのだから。そしてそれらを学習しながらいまも舟の中で暮らしているのだ。ひとりで。いや、時々地球にいる父が現れてくれるが、それは仮想空間だけの父だ。ひとりで乗船してから今まで「ひとり」ということをさほど気にしたことはなかったが一人には変わらなかった。孤独だった。百年の孤独も二十億光年の孤独も同じだ。一人でいる限り。まあこれにはさすがのマザーも手を焼いている。あれこれ孤独を感じさせないよう手を打ってくれるが、僕はそんなマザーのおせっかいが好きだ。まるで母親のように。

 しかし、実際のところ、脳の中を滝のように流れるそんな膨大なデータを消化していくのにどれほどの年数が必要かさえわからないほどだ。舟の航路をチェックしながら・・・宇宙も危険に満ち溢れている。ブラックマターという宇宙の海は何が出てくるかわからないのだ。ほとんどは舟のマザーが危険を回避しながら航路の微調整を図ってくれるが、ごくまれに僕の判断を訊かれることがある。たまに時空の歪みによる隙間を発見した時にその隙間に入るべきか否か問いかけてくる。マザーにはとても魅力的な隙間なのだ。しかし、隙間に入り込めば確率的な不測事象がごくわずかに生じる。そのわずかな不測事象、いうならばリスクを冒すか否かという判断を求められるのだが、僕はいつも許可してきた。そもそもが途方もないリスクを抱えたこの航海なのだから。古代人が「丁か半か!」とやっていた賭け事を見るとこのリスクには殆ど危険性はない。万が一リスクが露わになっても今まで通りマザーが回避するはずだ。というか、マザーはそんな不測事象が大好きなのだ。新しい宇宙物理学の知見は彼女の頭脳を興奮させるらしい。「紐よ!新しい素粒子の紐を見つけたわ!キャー!」なんて、マザーはそういう時だけは人間のように叫ぶのだ。艦内中に響き渡るような大声で。

 

 そんな中でいま、データの中から大昔の、三千年以上前に書かれた物語から導かれるように小侍従の世界にいざなわれたのだった。不思議だ。不思議というのはマザーにさえ理解できない感覚だ。「つまりね、不思議っていう言葉はね、人間が自分の分からないことに直面したときに生じる原始的感覚なのよ」とマザーはいうが分からないことのないはずのマザー、全知のマザーがそれ以上説明してくれることはないのだ。いつもはおそろしく多弁なくせに。自分は「キャー!」なんて叫ぶくせに。まあこのことでマザーを追及はしない。そんなマザーが好きなのだ。いま僕は小侍従の世界に居る、居ると言ったが、まさしく僕の感覚では「居る」のだ。ただ一点無念なことは自分の意志ではその世界を触れられないことだ。僕は五感をつかって一緒に感じるだけだ。これも共感という世界なのだろう。小侍従の旅路の始まりから、この厳島まで、僕は彼女の五感や言葉を自分の目で肌で彼女が感じる通りにほぼ感じることができていた。源頼政平忠度の戦場や戦陣での姿、平等院や琵琶湖に照る月・・・川のせせらぎの水の美しさ、空気や風、土の匂い、草木や山の息吹、花の圧倒的な美しさ、そして瀬戸内の海・・・すべての命が躍動する、なんと豊饒な世界なんだろう。そして王朝の花といわれた和歌などの文芸世界・・・僕は小侍従を通してそれらを貪欲に感じ取ろうと夢中だった。そして彼女が愛した人たちや、この旅路で出会った人々・・・僕はそんな古代の人々に魅せられ続けたのだ。知識ではなく経験として。その温かな心と身体をもつ存在として。そして人間とはかくも美しい存在なのかと目を瞠りながら。それらがわずか数日のことなのに僕には果てしなく長い時間に感じられたのはなぜだ。彼女たちにとっての数日間・・・僕には本当に長く感じられた。データ的に記号処理で実感する時間との違いだな。これもマザーにはなかなか理解しずらいことだろう。 

 

 つまり、僕は「ひとり」ではない?そう自問するとすぐに返事が聞こえてきた。貴方が一人なら私も一人、と。私が一人でないならあなたも同じ、と。いま、貴方は私たちとともにいます。それでも一人なのでしょうか、と。いや、僕はいま一人ではありませんと。僕から皆さんが、皆さんの世界が、もちろん貴女を含めて貴女を通して、ありのままに見えて感じられますよと伝えた。僕は再び目を閉じた。小侍従が語り掛けてくる。

 

 

 私たちはとうとう厳島に到着しました。

私たちは宋船から降ろした渡し舟に乗り、透き通ったさざ波の照り返しのなかに素足をひたしながら渡し舟を下ります。ああ私は足指の間から歩くたびにきらきらと輝く砂が水の中に吹きあがるさまに心が躍ります。その感触もなんと素敵なんでしょう。そして朱色に輝く厳島神社の大鳥居を仰ぎ見ながら、初めてこの地に降り立った私の感動はどうお伝えすればよいのでしょう。一歩一歩踏みしめる、神の島の白砂の音や水の輝きが私の心を満たします。

 

 この旅で私は瀬戸内の海や数々の青々と輝く島の景色、また、海で暮らす純朴な人々の精気あふれる褐色の姿を拝見し、宮中に暮らしていた頃には想像もつかぬ広々とした美しい景色を知ったのです。内裏の外の感動の世界を初めて知ったのです。女房たちの、執拗で陰湿な虐めに打ちひしがれ、ついには病を重くした私はどこにいったのでしょう。

 はしゃぐ子どもたち以外みな緊張の漲る表情です。蔡さまや李船長もいままでは洋上遥拝のみで、厳島上陸参拝はむろん私たち同様に初めてでした。浜に厳島神社社家当主佐伯景弘さまが社人の方々とともにお出迎えくださいました。

 

「小侍従様、皆さま、遠路はるばるようこそお出で下さりました。平経盛様にお聞きして以来、ずっとご到着を首をなごうしてお待ちしておりました。おお、蔡様ですか。宋のお方にご参拝いただくとは有り難きことです。お子さまもようこそ来てくれましたね、神様も大喜びでしょう。神様はね、君たちが大好きなんだよ」

 佐伯景弘さまは子どもたちを見ると途端に相好を崩してお喜びなさいます。