pakin’s blog

主に創作を主体とします。ただし、人権無視の最たる原発問題や、子どもの健康や命を軽んじる時事問題には反応します。

ふしぎふしぎ


子どもの頃4・5歳ころだったか、大阪の安治川河口の町に住んでいた時だ。母と銭湯の帰り道で懐中電灯を星空に向けて照らそうとしたら明るくならない。不思議だった記憶が残っている。

 

小学生の時には体積を求めるに、縦×横×高さなのだが、縦×横は面積だから面を高さに積み上げたら体積なのかと思った。しかし面積には厚みがないからそれは間違った理解だと教えられた記憶がある。だとしたら縦×横×高さでなぜ体積が出てくるのか不思議だった。

 

中学では無限、極限という言葉に一時期とらわれた。
極大極小永遠一瞬・・・謎でしかない。

 

そんな程度で高校の物理など教員のお情けで単位をとったようなものだ。まあ私以外にも出来の悪い生徒の集まりだったろう。試験で「宇宙のエネルギーの総和をだせ」という無茶苦茶な問題がでたことがあった。教員はよほどこのボンクラたちを相手に手を焼いたのだろう。答えれば点数になる問題を入れてくれた。私は「ゼロ」か「1」と適当に思い浮かべたが、「1」と書いた。ゼロの意味は理解してなかった(今でも)。答案はマルだったがそのどうでも良さに面白さを感じたので覚えている。他は覚えていないがおかげで進級できたのだった。

 

理系科目は高校でおさらばし、爾来定年まで関心を忘れていたのだが、ふと自然への畏敬から宇宙まで関心を覚えた。そして般若心経でいう虚空という世界に辿り着いた。以前埴谷雄高の『虚空』を読んだがさっぱり分からなかったので全集を引っ張り出し再度読んでみたが、どうにもならぬ思弁的語彙に溢れ、肝心の虚空はまったく見えてこない。埴谷自身が「わからなくて当たり前」と書いているのだから仕方ない。そんな状況で関心を持ったきっかけが三夕の歌と小侍従他の平安末期の歌叢だった。彼らの歌には虚空が歌として表現されていた。和歌の辿りついた一つの頂点だった。和歌自体が世界文学史に輝く金字塔であるが、思想的にやはり頂点ではないか。そこに「虚空」はあったのだ。西行を介して・・・拙文『竹取幻想』に触れた。

虚空・・・仏教の世界観の根本であろう。そしてそれと宇宙が関連してしまったのである。上記の通り科学知識は仏教同様に無縁の私だが引っかかってしまった。しかし現代の進歩は数式など無縁の私にも「なんとなく」分かるような説明がネットに溢れている。ありがたいことである。おかげで「なんとなく」分かってきたこともある。それは結局のところ私のようなボンクラには分からない、という事が分かったのである。

 

ビッグバンという宇宙開闢が起きたというのはいいが、何もない無の中からなぜビッグバンが起きたのか。一瞬にしてこの大宇宙を創造するエネルギーを生み出した背景が分からない。そしてこの大宇宙が猛烈なスピードで膨張しているというが、その大宇宙の外は何なのか。

 

ピコというのはピコ太郎?いや1兆分の1秒のことだが、百分の1秒さえままならぬ自分が1兆分の1秒の計測を想像するのは不可能。しかし10兆分の1秒を計測できるわけだから、さらにその分母の1兆倍の「秒」もあるだろう。つまりボンクラ脳には、時間とはなんだ?ということになる。すると、いや実は時間というものはない、などと言い出す。かわいくねえな。ピコ太郎の方がずっとかわいい。あのまったく意味不明な歌で子どもらに大うけした才能はみごと。子どもは意味不明でも大喜びするのだ。まあ、奇妙奇天烈な、あの顔あの踊りかもしれん。

 

それにしてもジェームズ・ウエッブの宇宙映像はあまりにも美しい。信じられないほどの美しさ。余りにも美しいので思考も停止。

車輪銀河

光速で約5億年の距離にあるという。その車輪銀河は2兆個あると言われる銀河の一つに過ぎない。2兆個とは現在の観測上ではということ。そして最遠の銀河は135億光年先という。現段階では。

 

始まりも終わりも分からない、果ても知らぬ中に生きる生命はその意味で大宇宙に同じ。

いやはや・・・虚空は大宇宙にあるのか、その背後にあるのか分からない。なんと楽しいことか。